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Close-by, Yet far Off -Remembering Leslie Cheung---part 8

続き
彼の家の蓮の池

その家は高級住宅地にあった。家に入るとすぐにわたしは、彼が2階から下りてくる足音を聞いた。彼はわたしの肩に腕をまわして、心からわたし達を歓迎に来てくれた。ダフィーはその晩、家にいなかった。彼はいつもメディアに出ないようにしていた。レスリーが亡くなってから、わたしは時々彼を見かけた。わたし達はお互いに手短に挨拶し、礼儀正しく短い言葉を交わしあい、別れる。わたしは彼と会うといつもナーバスになり、また彼もわたしと同じように感じていると思う。
以前、彼がわたしの方へ来るのを見た。わたしは彼に挨拶をしようとした時、わたしの足が椅子を後ろに押して、それをひっくり返してしまった。わたしの友人はわたしがダフィーを怖がらせたと冗談を言った。

レスリーの家は快適で、彼のもてなしは本当に心をがこもっていた。そして家にはいい料理人がいて、食事はおいしかった。しかし、それにも増して忘れられないのは楽しい食事の経験だった。

わたし達はディナーの後、裏庭でおしゃべりを続けていた。裏庭は長い木製のフローリングが敷き詰められ、小さな蓮の池があった。
彼の新しい映画についてのわたしの興味に応えてくれて、彼は「トニー・オウ(區丁平 訳者注:監督)と僕は撮影場所をチェックしに行った。でも、青島(チンタオ)はポストカードに見られるような景色ではなくなってしまった。もし、僕が他の場所を探すことになったら、台本を変えることになるだろう。そうすると僕が撮りたい映画と同じものにはならないだろう。そうなったら、むしろ僕は新しいストーリーを選んだほうがいいかもしれない。」

わたし達は午前1時ごろ失礼した。その夜、一度ならず何度も彼はわたし達に「これからももっとディナーに来てください」と言った。残念なことに、その後すぐに彼は逆流性食道炎になり、彼の声はハスキーになり、話すのが難しくなった。それを見て、わたしは再び彼を煩わせることはしないようにした。

わたしの編集長が彼の病気について知った時、彼はわたしにレスリーにインタビューをするようにと言った。わたしが彼に最後にインタビューをしてからずいぶん時間があったので、わたしはその提案について、いささかプレッシャーを感じた。けれども、わたしは気乗りはしなかったが彼に電話をかけた。彼はわたしのリクエストに応えてこう言った。「これは香港の人々がかかる普通の病気だから、僕がよくなった後にしよう。」

2002年11月、レスリーはわたし達の雑誌(明報周刊、香港)によって「最も傑出した俳優」賞を受賞した。彼は授賞式に出席した。それがわたし達が会った最後になってしまった。

多くのゲストが授賞式に招かれていた。エレベータの中は満員で、わたしは隅に追いやられた。わたしはレスリーが「黄丽玲(Wong Lai Ling)はどこ?」とわたしのことを尋ねている声を聞いた。そのように気軽に言われた短い言葉がわたしの心に触れた。リポーターとして長年、わたしは多くの名士と会ってきた。彼らは誰も、レスリーのようにわたしがどこにいるのかと気にしてくれたりはしなかった。
その晩、彼は体調がよく、健康的で、いつものようだった。表面的には彼が病気(鬱病)だという兆候を見せなかった。

続く
by Franny64 | 2010-05-23 11:10 | Magazine

レスリー・チャン(張國榮)に関するmy memoir 


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