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Wong Kar-Wai at the Museum of the Moving Image-2

続き
ウォン・カーワイ: ありがとう、アン。(観客に)来てくれてありがとう

シュワルツ: 映画を作りにニューヨークに来てくださってありがとう。わたし達はそれを観るのをとても楽しみにしています。
何度か映画を観ることがあなたにとってどれほど大事か話していましたね。本を読んだり、たくさん映画を見たりすることも。あなたのお母さんもでしたね。 あなたがどのようなタイプの映画を見たか、その期間にどこで映画を見たかなど少し話していただけませんか?

ウォン:ええ、確かにその時わたしはとても幼くて、わたしは上海で生まれたのですが、5歳の時に香港に移住しました。そのころわたし達は親戚もいなかったし、広東語も話せなかった。それにわたしのママは映画ファンでした。

わたし達はそのころチム・サーチョイと呼ばれる地域に住んでいました。「スージー・ウォンの世界(1960)」を想像してください。その後わたしは「恋する惑星(重慶森林)(1994)」で重慶マンションを撮影しましたが、それはわたしが育った地域だったからです。
その地域の映画館では地元の映画会社ーショーブラザーズの中国語映画が上映されていました。
また台湾映画もあり、中国大陸からの映画もありました。もちろんアメリカ映画を上映している大きな映画館もありました。またヨーロッパ映画を上映していたことも覚えています。そこはアンの映画「グリーン・ディスティニー(2000)」のプロデューサー、ビル・コン氏のお父さんが経営しているんですよ。

それで当時わたしのママは「わたし待ち」状態でした。なぜならわたしは1日の半分は学校にいたからです。
そこでわたしは朝、学校に行って、彼女は大体1時頃までわたしを待っているんです。それからわたし達は何か食べるものを買って、映画館に観に行きます。それでわたし達はほとんど毎日、映画を観ました。
それはわたしにとって、とても、とても深い経験でした。今まで映画も見たことのない中国から来たばかりの子供を想像してみてください。

香港に来た時に、初めてわたし達が観た映画を覚えています。それはとても驚きでした。ショー・ブラザーズの映画ではすべてがカンフー映画だったのに、それはカウ・ボーイの映画でしたから。それで、このことはわたし自身の、わたしの幼年時代の非常に思い出深い出来事になりました。
この日の終わりに、わたしは映画を作りたいと思いました。一人の観客として、わたしは映画を作りたいと思いました。わたしはこの驚くべきイメージを、映画館に行って座ったとき、思い出すことを望むのです。

シュワルツ: あなたが覚えている印象の強かった映画はありましたか?

ウォン・カーワイ:ええ、 わたしはまだ子供が見てはいけない映画になっていなかった映画を観たことを覚えています。それは多分「ダイヤルMを廻せ(1954)」のリメイク版の中国映画のようでした。(笑い)
これはわたしが浴槽で殺されている裸の女性を観た初めての時でした。(笑う)
いや、完全に裸ではなかったかな?半分だったかな?でも十分に印象的でしたよ。(笑い)

その後、わたしがまだ覚えているのは、とてもわたしに印象を与えた映画で、「バグダッドの盗賊(1940)」です。わたしは、いつも大きな像からルビーを全部取りだそうとしている子ども達に同感したからです。それは素晴らしかった。

カウ・ボーイの映画はママのお気に入りでした。彼女はハンサムな主役のエロール・フリンやロバート・テイラー、ウィリアム・ホールデンが好きでした。それでわたしはこれらすべての映画を観ましたよ。

シュワルツ:あなたはまたたくさん本を読むことも、あなたにとって大切なことだったと話していました。
あなたは映画監督の前に脚本家として映画界に入りました。でもあなたはロシアやフランスの素晴らしい小説を読んでいましたね。あなたは多くの文学的影響を受けていたと思います。

ウォン・カーワイ:その当時、わたしの兄や姉は中国にいました。文化大革命があったからです。彼らはわたし達のいる香港に来ることができませんでした。そこでわたしと、わたしの家族やわたしの姉たちとの唯一のコミュニケーションは、手紙を書くことでした。

わたしはそのころとても若くて、そして中国では彼らが読んでいたのはフランスの小説やフランス文学、バルザックやゴーリキーといったロシア文学でした。香港ではこういうものは教えません。でも、わたしは家族とコミュニケーションをとるために、これらの本すべてを読んで彼らと話をしようと思いました。

でも、驚いたこととにちょうど数ヶ月前にわたしは短編映画を作りました。わたしは「うん、わたしはこの短編映画をロシアで撮りたい。なぜならロシア語はとても美しい言葉だから」 いつか、わたしはロシアでも映画を撮りたいと思っていたのです。

シュワルツ:ふ~ん。あなたは監督をする時にどのような方法を取りますか?なぜなら香港の映画産業では個人的な映画は知られていませんでした。これらの映画は一般的な映画のように作りだされていました。
あなたが「今すぐ抱きしめたい(1988)]を監督する前まで、たくさん書いていましたね。

ウォン・カーワイ:わたしは香港理工大学でグラフィックデザインを勉強しました。なぜかはわかりませんが、わたしは絵を描く才能がないんですよね。(笑い)でもわたしは良い写真が撮れる。それで彼らは「まぁ、あなたはわたし達の学生になれますね」と言いました。

その当時、いわゆる香港ニューウェーブと言われるものの始まりでした。同様にテレビ時代が始まったからでした。その当時、ツイ・ハークやパトリック・タム、アン・ホイなどのとても重要な監督がたくさんいました。彼らはイギリスやアメリカで映画を学び、香港に帰ってきてテレビ局で仕事をしました。

それはとてもトレンディなビジネスになりました。10年前のITビジネスのような感じです。ワォ!って言う感じです。子ども達は皆、その仕事をしたいと思っています。そのため彼らは脚本家と監督の養成クラスを始めました。映画学校ではありませんでした。彼らは給料もくれるのです。そしてそこの学生がしなければならないことは、映画学校の学生のように、映画を観ることだけでした。

わたしは「わぁ、とってもいいなぁ」と思いました。それでわたしはグラフィックデザインの学生を辞めて、テレビ局に入ることにしました。それからわたしは多くの監督や脚本家に会い、1年後、多くの人々が去りました。
その時、わたしは映画産業にも香港ニューウェーブが始まったと思いました。そして多くの新しい脚本家やアシスタントディレクターが必要とされていると。そこで、わたしは脚本家になりました。わたしは10年以上脚本家でした。

シュワルツ:そこでどうやって「今すぐ抱きしめたい」を撮るチャンスを得たのですか?またあなたがどのようなことを試みたのか話してください。
わたしが2つの異なったアクションシーンのクリップを見せた理由は多くの香港映画には典型的な行動シーンがあるということです。でもまた同時にとても優しく、ロマンチックなシーンでもあります。
わたし達はすでにあなたのメイキングのスタイルを見ていて、わたしは思いました。すぐに、今すぐと。

ウォン・カーワイ:「今すぐ抱きしめたい」のアイデアはわたしがパトリック・タムと作り上げた脚本からきました。わたしはパトリック・タムのライターでした。そしてわたし達は2人のやくざ、取るに足りないやくざについてのプロジェクトを進めていました。

わたしはまだ覚えていますが、ジョン・ウーの映画「男たちの挽歌(1986)」の後でした。当時香港映画の主要な資金はアジアのマーケットから来ていました。そこで、「男たちの挽歌」のあと、みな「男たちの挽歌」のような映画を作ろうとしていました。人物は英雄的なやくざでなければなりませんでした。

わたし達の考えはその逆で、取るに足らないつまらないやくざについての話を書こうとしました。最初の章では彼らのティーンエイジャー時代、それから20代、そして中年時代。でも、それはとても難しいものでした。なぜなら人々が求めるものと違っていたからです。そこでパトリック・タムは第2章を作ることにしました。それが「最後勝利(1987)」でした。

その後、プロデューサーが「うん、それだな」と言いました。その時わたしに映画を撮るチャンスがきました。わたしは思いました。「よし、わたしはこの2人のやくざの第1章を作ろう」と。それが「今すぐ抱きしめたい」です。

続く)
by Franny64 | 2009-04-25 00:13 | Film

レスリー・チャン(張國榮)に関するmy memoir 


by Franny64