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Wong Kar Wai's Days of Being Wild ---part 3

続き
リズムとテンポ

王の時間についての関心は、また、映画のテンポに正式に反映される。それは劇的に、長い停止の瞬間と突然パワフルに暴力的な動きの発生とが交互に繰り返される。このテンポはまたとても急なショットと、とても長いショットの間の変化の中で明らかにされる。どちらも目的としては物語よりも表情豊かに思われる。外面的に、どちらかというと慌てふためいているように思われるかもしれない王のアプローチの、徹底した計算の、それ以上の証拠として、彼は映画が60年代のわたしの考えと一致した、どちらかというと遅いテンポを持っていると描写した。わたしは映画を4つの動きに分けてみた。第1番目は、たくさんのクローズアップで、とてもブレッソン的である。(訳者注:ブレッソン Robert Bresson フランスの映画監督。代表作「田舎司祭の日記(1950)」「ラルジャン(1983)」など) 第2番目に、とても複雑なカメラワークと長いテイクでB級映画の様相を呈している。第3番目には、深いフォーカスで撮影された。第4番目はよりいっそう第2番目のように見え、多くの動きがあった。

物語は等しく1人の登場人物から他の登場人物へと動き、さまざまな動きをより一層明らかにした。その精巧なシステム(その正確さが精密検査によって立証される)は、初期の観客を困惑させたに違いない。ゆっくりのペースでさほど重要ではない物語を補って、彼らとしては彼らのお気に入りのスターがただ何もしないで突っ立って話をしているよりも、何かしたり、演じることを期待していて、見たところでは、映画のための構成員としての役割を果たすことを意図されていた。しかし、この映画の厳しい審美的な図式を別として、何が視聴者と関連付けておくようにするか?それは登場人物のクールな魅力なのか?これは確かにわたし達がヨディに魅了される要因である。ただ彼があまりにもクールなので、サブはミミ/ルルに、ヨディは彼に彼の車をくれたが、運転していた彼の友人と「釣り合う」ということが、彼には決してないから希望がないと告白する。それで映画の魅力の一部は明らかになる。言いかえれば「クール」と呼ばれるものへの傾倒である。それでもまたそれをしたい放題させると同時に、あるレベルにおいて、王は同様に、外面的に面白い「今すぐ抱きしめたい」のマッチョな男性の決闘方法のようなものが、また信頼できる人間の遭遇の邪魔をすることを示唆して、このスタンスを探っているように思われる。

この映画のすべては、しかしながら、いつも結局は愛と時間の合流に戻る。ヘンリー・ジェームス(Henry James)の古典的な見解、見せるよりも語るを明らかにひっくり返し、「わたし達はそれ自身のストーリーを語る代わりに、ラブストーリーが語られることを待っていた。」とラリー・グロス(Rarry Gross)は、シーンとサウンドでヨディとリーチェンとの間の情事を簡潔に説明した。「わたし達は登場人物が将来の自分を想像し、まるで現在が直接描かれるにはあまりにも壊れやすいかのように過去を熟考するのを見ました。ナレーションが、ここと同じくらい他の場所に、時間が異なる断片の中に奇妙な外科的な切り口で機能しました。」


続く
by Franny64 | 2009-08-13 23:55 | Magazine

レスリー・チャン(張國榮)に関するmy memoir 


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