訳:档案 张国荣死亡之谜 北京电视台 Vol.4
字幕の日本語訳を載せていきます。レスリーファンの方が訳してくださいました。
1度に載せられる字数が決まっていますので、4回に分けて載せます。
続き
レスリーの言う唐さんとは 名前を唐鶴徳と言い
二人は香港の名士 張玉麟の契仔でした
だから小さい頃から知っていましたが 付き合いはありませんでした
(注:TVの中の写真は違っています)
1982年12月9日になり 麗晶酒店での集まりの時に 二人は再び会う事になります
とても早くに 仲良く行動を共にする 終生の親友になりました
最初 レスリーは二人の関係に対して 少しも隠しだてすることはなく
彼らの出入りも少しも避けることはありませんでした
ただとても早くから憶測を呼び
当時は正にレスリーの人気がでる節目だったので
二人は隠れるようになりました
そして外界からの圧力があり二人は別れました
唐鶴徳はもともと銀行の高官で 香港の金融業界内で
プロとして皆から褒め称えられる人物でした
ただ レスリーの為に彼は三度 自分の前途を諦めました
1997年 二人の関係を公開した後
唐鶴徳は香港のパパラッチに執拗に追いかけられ
自分の仕事をきっぱりと諦めなければなりませんでした
この時の事は第三者にはわからないけれど レスリーはとても重く考えました
彼は風水を信じる人で 香港の上環にある済公廟にいつも行っていました
毎年11月には 彼と唐鶴徳の名前が書かれた線香を飾りました
彼は こうする事で二人の感情に波風がたたない事を願っている と言っていました
十何年前からずっと途絶えることはなかったが
2002年の11月 一年の線香の契約が満期になってもレスリーは現われませんでした
それは その頃彼は病院に送られていました
これはレスリーが試みた最初の自殺でした
原因は鬱病です
彼は苦しみに耐えられませんでした
幸いにも唐鶴徳が発見し病院に送られました
事実上 彼の人生の中で最も暗い日々だった
彼は何度も身近な友人に
二年前に彼がタイに行った時 人に祟られた と言っていました
すなわち人に呪われたと
レスリーは 夜は眠れず 情緒はほとんど崩壊していました
自らを救うために 彼は著名な心理学の医者 麦列菲菲に助けを求めました
それに絶えずラマ教の高僧に会っていました
彼の生涯の最後の2年 レスリーは精神的な苦しみをひどく受けた
これでは事実がはっきりしません
それでは当時 彼の精神を崩壊させ 最終的に死亡を選択させたのは 一体何なのでしょう?
(熱情演唱会映像)
この映像はレスリーが2000年7月から2001年4月まで開催した
世界巡演熱情コンサートです
これは巡演した最後のステージ 香港での最後から2番目の公演です
そんな春風が吹くように得意になっている人が
どうして突然精神を痛めたのでしょう
それに 人から祟られている と疑うなんて
私達はやはり最初に戻って見てみましょう
レスリーの今回の半年以上かかった 世界巡演期間 一体どんな事がおきたのでしょう?
レスリーは完璧を求める人でした
彼は観衆に一つの見聞できる盛大なパーティを与えたいと考えました
だから彼は自らが全ての演出の芸術総監督を務めた
ダンスから照明まで 枝葉末節の一切 彼は全てに関わり意見しました
彼はまた ずっと崇拝していたファッションの大師 フランスのジャン・ポール・ゴルチェに
コンサートの全ての衣装のデザインを依頼しました
天使から悪魔までの造形を ゴルチェはレスリーの為にオーダーメイドで作った
衣装の効果をマッチさせるために レスリーは長髪にすることを選んだ
ここに記録映像があります
彼がパーティの為の準備している様子をちょっと見てみましょう
(コンサートのミーティング映像)
正に コンサートのタイトルと同じように
今回のコンサートに対して レスリーは最大限の熱情を注いだ
2000年7月31日
彼は全ての熱情を携えて 香港ホンハム体育館の舞台に登った
(コンサート映像)
しかし レスリーは出演した二日目に問題が起きるなんて
思ってもみなかったでしょう
どんな問題なのか?
彼は沢山のメディアの攻撃の対象となりました
それは一体どんな問題が出たのでしょう?
問題は 彼が入念につくりあげた造形にありました
彼の何を罵ったのでしょう?
それは私達が前の映像で見ました
長髪をひらひらさせ スカートを穿き 背中をあらわにさせています
メディアは 長髪は貞子の化身だ…すなわち女の幽霊です
スカートを穿くのは女性に扮装している 彼は男でも女でもない
それに 女装癖の疑いがある と言いました
それでは レスリーの考えとゴルチェのデザインの理念は
本当に彼らの言うようなあんな程度だったのでしょうか?
当時の8月の香港の新聞に一つの文章が掲載されました
みなさん 見てみましょう
ゴルチェのデザインの理念はこうです
天使から悪魔になるのは 一人の瀟洒な美少年で
それぞれの場面に雅やかな姿態がある
短いスカートのデザインは古代ローマの服装からインスピレーションを受けた
また長いスカートは古代ギリシア時代の男女のいでたちだ
長髪をひらひらさせているのは その頃の男性に普段見られる髪型だ
香港メディアのこうした誇張した言い方に
真っ先に怒ったのはレスリーではなく ゴルチェでした
彼はその事を聞いた後 これからは香港の歌手には二度と衣装のデザインをしない
そう公開表示しました
レスリーはどうでしょう?
彼はこれらの事を聞いた後 彼は一貫して儒雅(博学で品がある)な様で 淡々と答えました
(レスリーの声)
私は ある時期
私達のようなランクの人は
ただ先駆けの事をやりはじめるだけだと思います
どんなふうに言われようとも 熱情演唱会の世界巡演はすでにその幕を開けた
彼は停めることはできなかった
彼がどんな所に行ったのか 見てみましょう
香港を離れた後
レスリーは熱情演唱会を携えて 先にマレーシアのクアラルンプール
それから 中国の上海 日本の東京 カナダのトロント アメリカのラスベガス
東アジアから北アメリカを跨いだ17カ国の都市に行きました
2001年4月 レスリーは熱情演唱会を携えて香港に戻ってきました
そこで最後の2場の公演を開催しました
興味深いのは
半年以上の時を過ごし 地球の半分以上を巡ってきた後の
今回の香港のメディアは全体的に レスリーに対して
コンサートを熱烈に褒め称える180度の方向転換をしました
香港の著名な司会者 査小欣が
一時期 レスリーの死亡の謎を 番組で明らかにしたことがあります
レスリーが当時感じていた思いについて
彼女はこの様に話しています
ちょっと聞いてみましょう
(査小欣の声)
彼は楽しくありませんでした どうしてこのコンサートが楽しくなかったのか
それはメディアの報道にありました
彼は完璧を求める人です
どの事に対しても彼は最も良い、最も優れたものにしなければなりませんでした
メディアは大袈裟に騒ぎたてました
私は彼がこの騒ぎの中にいるのがわかりました
彼はとても長い間、自分の体調を取り戻そうとしていました
ただ やはりできませんでした…
(コンサート映像)
レスリーはとても細やかでデリケートな人でした
メディアの態度が変わりました
最初は傲慢だったのに後には丁寧な態度になりました
このことは再び彼を傷つけることになりました
彼は感じました メディアが認めたのは 自分・レスリーではなく
外国人の評価だと…
(阿飛正傳の映像)
これはレスリーの<阿飛正傳>の中で
旭仔を演じている時の台詞です
聞いていると とても彼に似ています
そうです
レスリーの人生を映しだしたかのようです
少年時代 肉親からの愛情は足りませんでした
20年以上の失意のスターの道のりでした
情愛の暮らしは受け入れられず
世論は更に大きな圧力をかけました
その上 彼自身も完璧を求める純真な人でした
この全ての一つ一つの重い負担
最後に彼はこの重荷に堪えられなくなりました
(コンサートでの<我>~色々な映像)
終わり